住吉村常盤会が所有している帝塚山古墳は、昭和38年国の史跡に指定され、大阪市内に残る数基の古墳のうち、前方後円墳の原型をとどめ、4世紀末から5世紀初めの築営と推定される貴重な古墳です。当初の規模は全長120m、後円部の直径57m、高さ10m、前方部の幅50m、高さ8mであったと推定され、内部構造や副葬品などは不明ですが、二段築成の墳丘には円筒埴輪列や葺石、周濠の跡も確認されています。
古く住吉近辺は玉出岡と称したことから帝塚山は玉手塚とも呼ばれました。玉手塚の呼称によって手塚山、そして帝塚山として現在の地名の元にもなりました。また、東側にはかつて大玉手塚あるいは大帝塚と称した古墳(現在の南海高野線帝塚山駅の周辺)、対する小玉手塚あるいは小帝塚と称した古墳(現在の住吉中学校付近)などが存在したが現在は消滅しています。
被葬者は不明ですが、住吉に居宅があった大伴金村の墳墓とする説があり、他にも鷲住王(摂津名所図会)、また地元では浦島太郎の墓とする伝承もあったようです。
明治31年(1898年)11月に行われた陸軍特別大演習では、明治天皇が帝塚山から御統監あらせられたことを記念する天皇駐蹕碑(題字は閑院宮載仁親王、碑文は藤澤南岳、大正3年住吉村の建立)が墳丘上に建っています。
当所には市内では珍しくなった「カンサイタンポポ」をはじめとする植生が見られます。
住吉村常盤会はこの墳墓に境界柵を設け、定期的に古墳の清掃、樹木の管理を行っています。
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